性善説は減点主義

日本に根付く性善説

性善説。

人間の本性は基本的に善であるとする、もとは儒教の教え、孟子の考えであるとされています。

もともとは、孟子が覇道(武力による天下の支配)がはびこる現状で、君主に王道政治(仁徳による統治)を説くためにあり、武力による支配を行う君主に対するものでありました。

王道政治というようなものは聖人しか行えないという君主の冷淡な反応から、「性は善であるべき」というところから、もともと「性は善である」と変化したとのことのようです。

「性善説」。

企業の理念にもたまに「性善説」で考えようというものもありますし、性善説と言う人がなにかしら「良い人」という印象もあります。人を信じる良い人、正しい人、のような。

しかしこの性善説は、もちいられている用法によっては非常にきびしく、人を追い込むもとにもなっています。

だれでも「最初から完璧な人」という決めつけ

性善説としてもちいられる、もしくは無意識に使われる内容として、生まれながらに人間は完璧な性質を持っている、生まれながら欠点はない、という点です。

聖人として、すべてが完璧であり完全。それがあたりまえで普通とすることが性善説。

その思想が最も問題なんです。

性善説であるから、問題もなくすべて完璧が、あたりまえ。

問題なく遂行してあたりまえ。この思想が引き起こすものが、ここでいう減点主義:ペナルティズムにつながるのです。

性善説=減点主義=ペナルティズム

もともと生まれながらに聖人である「性善説」では、だれもがはじめから完璧。

もとも聖人だから、ただしいこと、良いことをしたところで褒め称える=加点されることはないんです。

何かをなすことはあたりまえであって、なんら称えることではないんです。

会社員であれば、事業で成果をだしてあたりまえ。

子どもであれば、言うことをよく聞いてあたりまえ。良い子であたりまえ。

母親であれば、良い母親、母親らしい母親であってあたりまえ。

またこの性善説、もとが道徳を説くものなので、

 

問題がある=善を発揮できない=不道徳である=悪

 

となり、この不道徳=悪を批判することが性善説におけるアプローチになります。

しかも性善説ゆえ問題は不道徳なので、問題があればその人間をきつく指導する、きつく叱る、というアプローチになります。

これが性善説=減点主義になる所以です。

性善説=>減点主義では、問題はその人間性と結びつき、その人の人間性の批判につながることが往々にしてあります。これがパワハラや虐待などの原因です。

 

テストで100点をとっても、性善説では当たり前。性善説では、生まれながらに完璧だから。

そもそも性善説・性悪説とは

そもそも孟子は「人間は生まれながらにして善である」などと言っていないんです。「善」なる性質をもつと言っているのです。

反対に性悪説を説いた荀氏は「人間の本性は悪である」と言い切っています。 しかし彼が本当に言いたかったのは、それに続く「善というのは偽すなわち後天的な作為の矯正によるもの」という部分です。荀氏は 生まれてからの教育、本人の努力が重要であると考えたのです。

加点主義は性悪説

「性悪説」はこの「悪」を教育によって矯正するものです。 だから成長を褒めます。
もともとは「悪」だった人が良くなる。それを褒め称えます。

そもそも人は問題だらけ。できなくて当たり前。

それができるように努力する、できるようになる。もともと悪が善になるので、これを褒め称えるのです。

だから性悪説は加点主義になります。

加点主義では、とにかくチャレンジすること、よくなるように行動することそのものが加点です。

良い点、良くなった点にフォーカスし、それを褒め称えることが加点主義者です。

続きます。

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