「働くことが嫌いなんです」という若い20代の彼のこと

「働くことが嫌いなんです」という若い20代の彼のこと

「働くことが嫌いなんです」

社会に出て2年目の若い彼は、「ぶっちゃけてもいいですか?」との前置きで、とにかく自分は働くことが嫌いなんだと思うと言いました。

今の20代、または学生の人と話をしていて、基本的に本心を出さない、職場とプライベートはまったく切り離している感覚があります。

その感じはとてもよく理解できます。もともと自分自身がそうだったのもありますけど。

彼も基本的には本心は出さず、特に就職活動のときは、面接官に受けの良い趣味を考え、興味もないのにその趣味をやり続けて面接にのぞんだり、取り繕った笑顔や想定問答の受け答えをはきはきと答えたり。

しかしそれ以外では、特に会社、職場では、決して本心は話さず、無難は意見や振る舞いに終始します。

実際は彼に限らず、今の多くの若い人たちは彼のような振る舞いをし、上の年代からは、やる気があるのかないのか、いったい何を考えているのかがわからないと思われているようです。

上の世代の人が「働くことが嫌いなんです」なんて聞いた日には、人によっては烈火のごとく怒るか、呆れるか、こいつは根性がなさすぎるとか思うでしょう。

(でもほんとのところは、上の世代も彼と同じように働くことが嫌いで、仕事が嫌い、会社に行くのもしんどいと考えています。毎朝の通勤電車にのればわかるでしょう。)

趣味であれば大丈夫なんですけど

彼はとにかく仕事は嫌いだけど、いろいろな趣味なら没頭できると言います。

ジムに通ったり、プログラミングをしたり、イベントに参加したり。

自由に自分でできることは好きでやることができると。

今は体を鍛えてるという彼。理由が、体が大きくなればだれも何も言ってこなくなるだろうからと。

「なにか言われてるの?」と聞くと、いや、特にないですけど・・と。

「仕事の何が、どういうところが嫌い?」と問うと、彼は

時間どおりに来なくてはならないから

ミスや失敗した場合に迷惑をかけてしまうから

〇〇に気を遣うから

とにかく緊張・萎縮してしまうから

おそらく上の年代の人が聞けば、たるんでいる、甘えている、根性がないと思うだろう。

本当は「仕事が嫌い」ではなく

私「たとえば、時間通りに来なかったら?」

彼「え?時間どおりに来なくちゃいけないですよね」

私「そうかもしれないけど、例えば来なかったらどうなる?」

彼「そうですね、、怒られますよね」

私「それから、失敗したら、それがどうなる?」

彼「そうですね、迷惑かけますよね」

私「迷惑かけると、どうなる?」

彼「そうですね、、怒られますよね」

私「ということは結局、仕事が嫌い、ではなくて、その先にある「怒られる」がいやなんだよね」

彼「ああ、たしかにそうですね。」

仕事の裏に存在する「罰」

彼は自分で「仕事が嫌い」と思っていたが、仕事そのものが嫌いなのではなく

仕事の裏に存在する「罰」

が嫌いだったわけです。

きっちり時間どおりに来れなかったら「怒られる」

定時が過ぎても少しでも残業しなくては「怒られる」

なにか意見を言わなければ「怒られる」

なにか意見を言っても間違っていたら「怒られる」

仕事でミスをしたら「怒られる」

なんだかわからないが「ちゃんと」していなかったら「怒られる」

会社、職場は常にこの「怒られる」という「罰」がつきまとっているんです。

「罰」をモチベーションと考える組織

なぜ罰が存在するのか。

それは、罰を与えることが、人を成長させると考えられているからです。

罰=バツ・減点が、その人の成長の糧・原動力、いわゆるモチベーションになると考えられているのです。

ムチで強く叩けば速く走るであろう。

叩けば叩くほど、速く走る、というように。

また性善説や減点主義では、すべて完璧な状態が普通であり「あたりまえ」と考えます。

ミスや失敗、決まりを守れない、義務を果たせないことが「異常」であり、マイナスです。

本来は、すべて完璧が普通であるのに、できない、失敗するということは、本人の「人間性」の問題となります。

故に、「罰」を与えて人間性を矯正しようと考えるのです。

やり方や仕組み、技術の問題ではなく、その人の人間性、心の問題であると考えるので、それを正しくするために「罰」、減点を与えることが正当化されるのです。

失敗したら「本人のため」に、よりきつく罰をあたえなければならない、「本人のため」に常に監視して減点しなければならない。

働くひとは、常に誰かから監視され、より自分に負荷をかけることで「罰」から逃れるために、自分で自分を追い込むようになるのです。

これが、いわゆるいじめやパワハラ、過労死、うつ病につながる原因であるのです。

日本のいたるところに存在する「罰」

日本には、いたるところにこの「罰」が存在しています。

例えばことの良し悪しは置いておいて、どこかお店に入って接客があまり良くなかった場合、クレームを入れる人がいます。

クレームを入れる建前として、その店が良くなるというものがあります。

良くない・悪いところを、感情的に指摘することが、その人、そのお店にとって良いことであると考えます。

笑顔がない

イラッシャイマセを言わない

商品がでてくるのが遅い

感じが悪い

それを感情的にきつく指摘しないと、改善されないと考えます。

何か気に入らないこと、ミスを受けた場合などは、

感情的に怒っても良い

感情的に怒らなければならない

感情的に怒らなければ、改善されない

感情的に怒らなければ、相手のためにならない

と考えているのです。

性善説や完璧主義など、相手のミスや失敗を許せません。

人間はもともと不完全だというような性悪説を受け入れられません。

相手に対して、自分が気に入らない点はきつく叩いて矯正しなければならない、それが相手がよくなるためのモチベーションと捉えることが、息苦しさ、萎縮する空気を生み出しています。

本当のモチベーションとは

育児をされてたり、ことども関わる方はよくわかると思いますが、こどもは何も言わなくても、自分のしたいことをどんどんやります。

萎縮して疲れていたり、失敗を恐れて何もしない、という子どもはほとんど見たことがないと思います。

それを見ると、人は本来、新しいことや楽しいことをどんどんと取り組みたいという本能があると思います。

本当のモチベーションとは、そういった未知のもの、新しいことや自分がやりたいと思うことを取り組むことそのものにモチベーションがあると思います。

まずやることそのものが良いこと、失敗やミスを恐れずに取り組むことそのものに価値があるとする「加点主義:アディショナリズム」が、人の本来のモチベーションであると考えます。

数字だけのKPI、他人から与えられた目標、きつい罰などでは、モチベーションがなくなるだけと誰しも無意識で気づきはじめています。

罰で人をコントロールしないこと。

罰が本人のモチベーションと思わないこと。

失敗そのものもプラス、経験であると思うこと。

他人を罰しないこと。

自身を罰しないこと。

改善点があるなら、冷静に相談にのる、サポートをする。

まずは減点主義をやめて、加点主義になることです。

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